18世紀、香水は単なる装飾ではなく、生活に欠かせない実用品でした。そんな時代にマリー・アントワネットが好んだ香水には、彼女の美意識と清潔へのこだわりが映し出されており、現在も「王妃の香り」として語り継がれています。今回は、当時の香水文化と、植物の香りが人々の記憶にどのように息づいてきたのかを探っていきます。香水が生活必需品だった時代|ヴェルサイユ宮廷の実態

18世紀のフランス、ヴェルサイユ宮殿――そのきらびやかな宮廷生活の裏側には、現代では考えられないような衛生事情がありました。
当時の宮殿には水洗トイレや浴室はなく、王族や貴族たちは寝室や控室で携帯式の便器(おまるや椅子型の便座)を使って用を足していました。中身の処理は召使いが行い、屋外に捨てられることも日常的でした。
貴族たちはドレスを着たまま用を足し、衣装の着替えは儀礼として行われていましたが、清潔を保つための着替えは重視されておらず、入浴の習慣さえ乏しいものでした。
トイレの数も圧倒的に足りなかったため、使用人や見物人が廊下の隅や階段、庭などで排泄することもあり、建物内は常に不快な臭いにさらされていました。
そんな環境で発達したのが、香水によって悪臭を隠す文化です。
もともと香水は“香りを楽しむもの”ではなく、“悪臭を覆い隠すための実用品”として使われており、頭から足先まで塗布するのはもちろん、扇子やハンカチにも香りを染み込ませ、会話中に鼻元へ当てるのが上流階級のたしなみとされていました。
こうしてヴェルサイユでは、香水は日常生活に欠かせない必需品として、濃厚で強い香りほど高貴とされる価値観が定着していました。
マリー・アントワネットの故郷オーストリアとのギャップ
のちにフランス王妃となるマリー・アントワネットが育ったハプスブルク家・ウィーン宮廷は、フランスとは異なり、比較的清潔志向の文化を持っていました。
マリー・アントワネットの母であるマリア・テレジアは、子どもたちの健康や衛生を重視しており、教育やしつけも厳格でした。そんな母のもと、マリー・アントワネットも、入浴や洗顔といった清潔を保つことを当然とする環境で育ちました。
そうした環境で育った彼女が14歳でフランスに嫁ぎ、ヴェルサイユの宮廷生活に足を踏み入れたとき――その文化の違いには大きな衝撃を受けたといわれています。
フランスでは「水は皮膚に悪い」「病気を引き起こす」といった考えから、水に触れることそのものが避けられていました。そのため、顔を拭くだけで済ませることも多く、入浴の頻度も極めて低かったのです。
水を忌避し、不衛生な環境の中で、香水で全身を覆うのが日常だったフランス宮廷に、オーストリアから来た王女は違和感を覚えずにはいられなかったでしょう。
実際、彼女が周囲の強い香水の香りに顔をしかめたり、「水で顔を洗いたい」とこぼしたという逸話も残されています。
香りに支配されたヴェルサイユの空気は、ウィーンから来た若き王太子妃にとって、まさに異文化そのものでした。
不衛生な生活環境に強い違和感を抱いた彼女は、周囲の慣習に流されることなく、自分なりの快適さを求めて、ヴェルサイユでの暮らしに入浴の習慣を取り入れるようになります。
当時としては珍しいその姿勢は、王妃としての地位を得た後も変わることなく、清潔さへのこだわりは彼女の暮らしの一部として根づいていきました。
王妃マリー・アントワネットが愛したスミレ入りの香水
清潔を保つことを大切にしていたマリー・アントワネットは、ヴェルサイユの生活の中で、もはや悪臭を覆い隠すための強い香水を必要としなくなりました。
その代わりに彼女が選んだのは、ほのかに香る繊細で上品な香水。香りは飾りではなく、自分自身の清潔さと調和するものであるという、当時としては新しい感覚でした。
マリー・アントワネットのために調香を行っていたのは、当時の王室御用達の調香師「ジャン=ルイ・ファルジー(Jean-Louis Fargeon)」でした。
彼は、彼女の嗜好に合わせて、濃厚な香りではなく、花そのものが持つ自然な香りを活かした香水を調合していたと記録されています。
その処方の中には、スミレ、オレンジの花、ローズ、ジャスミン、チュベローズなどが用いられており、いずれも軽やかで繊細な香り立ちが特徴でした。
特にスミレは、甘さの中に植物的な爽やかさを含んだ、繊細で複雑な香りを持ち、彼女の清潔感や気品を引き立てる香料として選ばれていたと考えられています。
また、1775年創業の香水ブランド「ウビガン(Houbigant)」も、当時の王侯貴族に広く愛用されていたことで知られ、マリー・アントワネットの名もその顧客のひとりとして伝えられています。
王妃が使用したという確かな史料が残っているわけではありませんが、そうした伝承は、18世紀の香水が上流階級の間でいかに深く浸透していたかを物語っています。
現代も語り継がれる“王妃の香り”という記憶
1793年、フランス革命のさなかにマリー・アントワネットは処刑され、王妃としての生涯を閉じました。
しかしその死をもって彼女の存在がすべて消え去ったわけではありません。
彼女の調香を担当していた王室御用達調香師ジャン=ルイ・ファルジーは、彼女のために調合した香りの記録を残しており、その香りは「王妃の香り」として、革命後も人々の記憶に残り続けたとされています。
香水は単なる装いの一部ではなく、その人自身を象徴する記憶の媒体でもあります。
そしてマリー・アントワネットの香りは、彼女の気品や美意識、静かな個性を思い起こさせるものとして、革命後の混乱を経てもなお、“失われた優雅さ”の象徴として現代も語り継がれています。
18世紀の香水は天然素材|高価で貴重な香りの芸術

マリー・アントワネットが生きた18世紀、香水の原料はすべて天然素材に依存していました。
調香に使われていたのは、花から採取した精油やチンキ(ハーブをアルコールに浸し、香り成分を抽出した濃縮液)、ミルラやアンバー、サンダルウッドといった樹脂や樹木などの植物です。
これらが、当時の香水を構成する基本的な材料でした。
また、香りの持続性を高めるために、たとえばジャコウジカから採れるムスクや、ビーバーの香嚢から採れるシベットなどの動物性香料も、ごく少量ながら用いられていました。
このように、当時の香水は、天然素材を加工・抽出することで作られており、植物や動物から香り成分を得るには、膨大な量と手間と時間が必要だったのです。
特にスミレの花から得られる天然香料(とくに“アイオニン”)はごく微量しか取れず、精製も難しかったため、ごく限られた香料としてたいへん高価で貴重なものでした。
「スミレ」は香りの主成分として記録に残っていますが、具体的にどのスミレの種が使われていたかは明確ではなく、一般的には Viola odorata(ニオイスミレ)が用いられていたと考えられています。
こうした天然香料によって調合される香水は、一つひとつがきわめて贅沢で個性的なものであり、身にまとう者の趣味や身分を象徴する、まさに“香りの芸術”でもあったのです。
マリー・アントワネットが好んだ香りを再現した香水

マリー・アントワネットが好んだ香りは、現在、「トリアノンの香り(Parfum du Trianon)」として、フランスのブランド(例:Historiaeの「Bouquet du Trianon」など)が再現香水を販売しています。
日本でも、ランコム(LANCOME)「ラバンデス・トリアノン(Lavandes Trianon)など「トリアノンの香り」にインスパイアされた香水や関連商品が、不定期ながら展開されています。
現在の香水は、科学的に合成された香料で作られており、動物由来の香料(ムスクなど)の使用も規制されているため、当時の香りを完全に再現することはできません。
それでも、歴史的背景や文献、香料構成に基づいて、彼女のイメージに近づけた香りとして再現されています。
現代では、実用性を重視したスプレー式の手のひらサイズの瓶が主流となっていますが、当時の香水瓶は、外出時にも持ち運べるように作られた小型のもので、美しい装飾が施されており、瓶から少量を取り、肌や衣類に直接塗布して使用していました。
ちなみに、「トリアノン」とは、彼女のお気に入りだった離宮「プチ・トリアノン」にちなんだ名称です。
この小さな離宮は、マリー・アントワネットが宮廷のしがらみから解放されて過ごした私的で自由な空間であり、そこに漂っていたであろう香りのイメージが、再現香水の名に託されています。
香りが語る文化と記憶|植物が人間社会に与えた価値
植物の香りは、太古の昔から人々の暮らしに深く関わってきました。
花を手向ける儀式や、香草を焚く宗教行為、薬草としての利用、身だしなみや空間の演出など、香りは私たちの文化や習慣の中に自然に組み込まれてきた存在です。
マリー・アントワネットが愛した香水に使用されたスミレやローズ、ジャスミンも、見た目の美しさだけでなく、香りを通じて人の記憶や感情に働きかける力を持っていました。
だからこそ、彼女が選んだ香りは、時代を超えて語り継がれ、再現され、いまもなお人々の記憶に残り続けています。
マリー・アントワネットを偲んで――
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